田和山遺跡の聖と俗
田和山サポートクラブ 副会長 堀晄
田和山遺跡は戦争の砦説やお祭り場説などが挙げられて来ましたが、どれも隔靴掻痒、ピッタリと来ません。私は魏書東夷伝の卑弥呼の宮殿の記述との類似から、占いと鬼道の場であると主張しています。
三重の濠というのは城壁を築くための土取の跡でしょうし、つぶて石というのは城壁を守るための石葺きの崩れでしょう。投げるには大き過ぎ、2メートルも転がりません。出土した武器も戦争の道具というより、至聖所を守るためのものと考えます。第一環濠から数多くの石鏃が出土していますが、これらも戦いの痕跡ではなく、何らかの弓を使った儀式が行われていたのでは?と思っています。
頂上の木柵の中には9本柱の建物、6本の柱列、そして南西の角に五本柱の小さな建物の跡が発見されています。この五本柱の建物について、あまり言及されて来ませんでした。
ある時、会長の田中義昭先生が東南アジアの寺院で、寺院のはずれに小さな供物を収める小屋があり、田和山の五本柱の用途を考える上で参考になるとおっしゃいました。
これは極めて示唆に富んだ観察のように思われます。田和山の五本柱建物は木柵列の上にあるのです。木柵の中を聖なる空間、外側を俗世界と考えると、世俗の人が供物を持ってちょうど界のところまでは接近できたのではないでしょうか?
田和山が特別な聖空間とすれば、妄りに人々が近づくことはタブーだったに違いありません。三重の城壁も聖空間を俗から遮断するためのものです。特別なお祭りの際には俗人も近くまで行って貢物を捧げたのかも?
妄想が過ぎると叱られるかもしれませんが、辻褄は合っており、戦争砦説やお祭り場説よりはるかに実態に即していると考えています。