山陰随一のパワースポット

山陰随一パワースポット 松江の田和山遺跡
   堀 晄(ほり・あきら) 元 古代オリエント博物館研究部長

田和山遺跡は、山陰随一のパワースポットであり、松江の誇りです。
何故そんな風に言えるのか、これから幾つかの要点をお話しましょう。

  松江のへそ

田和山遺跡は北東に宍道湖を望む高さ36メートルほどの丘の頂上にあります。城山が高さ30メートルほどですので、それよりも高く、松江の殆どの場所から見ることができます。つまり「松江のへそ」と言えるのです。

島根県遺跡データベース
田和山遺跡全景

  孤高の遺跡

その構造がきわめてユニークで、日本中を探しても似た遺跡は全くありません。

平成9年から12年にかけて、松江市立病院の建設に伴って松江市教育委員会の手で発掘調査が行なわれました。その結果・・・頂上に三重の壕がめぐり、その中央には九本柱の高床住居が一軒だけ発見され、その他の家は環壕の外側に並んでいる・・・そんなユニークな二千年前の弥生時代の遺跡だったのです。それまでも弥生時代の環濠集落は発見されていましたが、それは村を守るもので、濠の内側に家が建てられているのが当たり前だったのです。

こんな類例のない遺跡を壊してしまうのは松江の恥だとして保存活動が市民の手で進められ、平成13年に国指定史跡として保存、活用が進められることになったのです。

  パワースポットたる所以

どうして田和山遺跡はパワースポットと言えるのでしょうか?パワースポットかどうかは、解釈の問題ですから、ここからは私たちの価値判断に基づくお話です(眉に唾付けてくださいね)。

遺跡の頂上に登ると、中央にある九本柱の高床住居、その周りに連なる防護柵、そして急な斜面に造られた三重の壕、これらが目に飛び込んできます。

見た目に惑わされてはいけません。壕があって飛び越えるのは大変・・・というのでは落第です。巾7メートル、深さ1.8メートルもの壕を掘った時に出た余分な土はどうしたのでしょう?当然、壕の周りに積み上げて城壁にしたのです。テーパーのついた土塀なら、高さ3メートル、基礎巾4メートルの、越えるに越えられない巨大な城壁を築くことが可能なのです。

三重の環壕
三重の環壕

実際、文化庁の史跡解説には・・・濠と濠の間と一番の濠の外側で、部分的ながら土塁の痕跡も確認されている・・・と記述されています(濠は水を張った堀を示すので、この場合は壕が正しい)。
つまり、今は崩れ去って目にすることはできないが、往時の田和山は巨大な城壁に守られた砦だったのです。よく壕の底に散らばっていた石を投弾とする解説がありますが、あのような大きな石は投弾にはなりません。城壁の葺石(ふきいし・敷きつめた石)だった可能性が高いのです。

  巨大な宗教施設

砦といっても戦争のためのものではありません。狭い頂上には小さな家が一軒あるのみなのです。厳重に守られた高床建物、それを守る壕と、恐らく守り仕える人々の村・・・それは二五〇年後の倭の国の様子を伝えた”魏志倭人伝”の一節を思い出させます。

其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟、佐治國、自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飮食、傳辭出入居處。宮室・樓觀・城柵嚴設、常有人持兵守衞・・・

「宮室・樓觀・城柵嚴設、常有人持兵守衞」という記述は田和山そのものの形容と言えます。卑弥呼のような鬼道を掌るたった一人の司祭のためだけに、この田和山は捧げられたに違いありません。それまでに例を見ない巨大な宗教施設であり、これをパワースポットと言わないで何と呼ぶのでしょうか?卑弥呼の宮殿もパワースポットの候補でしょうが、残念ながら所在不明です。田和山は実証されたパワースポットなのです(パチパチパチ)。

田和山遺跡の頂上
田和山遺跡頂上

  中心にあったのはミニ出雲大社!?

狭い頂上を占めているのは九本柱の高床建築、つまり二間四方の小さな建物です。南側に広場があるので、高床建物に上がる階段は南側に設えてあった筈です。二間巾の建物に階段を付けるときは右側につけるのが普通です(右利きの人にはそれが素直な方向)。

上に上がると建物の入口があるはずですが、それも正面右側になります(狭い回廊を横切るのは不便ですから)。中に入ると正面には障壁が見えるはずです。神聖な場所はすぐには見えなくなっていて、左に回って、障壁の奥に祭壇があったと想像します。この構造は大社造りの神社と同じです。

田和山が出雲大社の前身だ!と言うのは言いすぎです。ただ、出雲地方で伝統的な建築様式が神社建築にも取り入れられたのかも・・・と秘かに心の中で納得するだけです(微妙です)。

  二千年前の出雲国

田和山から見える出雲国の抜群の外交力・・・それは先進国の証です。田和山遺跡から漢帝国の出先機関、楽浪郡で作られたと考えられる硯石や楽浪の灰陶(黒灰色の色をした土器)が出土しています。当時の硯は墨粒を水で溶いて、竹簡や木簡に書きました。田和山人は漢字を解したのでしょうか?

楽浪郡の硯
楽浪郡の硯

一説では文字は知らず、ただ威信財として持っていたという説があります。しかし使い方も知らないものがステイタスシンボルになるのでしょうか?弥生時代は未開だったという思い込みから生まれた説のようです。

朝鮮の正史である「三国史記」や中国の史書によれば、当時の南朝鮮は、倭人の世界でしたから、北九州や出雲は頻繁に朝鮮の地域と接触していたはずです。

一般に文字は百済から四世紀以降に伝えられたとされていますが、後漢の光武帝が57年に倭奴国に金印を授け、その印鑑を使って親書を書くようにとしてくれたことは、北九州でも漢語を解する人々がいたことを如実に語っています。

この硯の発見は、出雲にも二千年前には文字を書ける人がいたことを証明するもので、日本文化史上の大発見なのです。

このことを確実に証明するには文字が書かれた当時の遺物(土器片など)の発見を待たねばなりません。しかし、そのような目で出土物を見直せば、きっと新しい発見もありうる・・・そんな夢を田和山は与えてくれるのです。

  田和山遺跡は松江のみならず、日本の宝である

遺跡そのものも、息を切らして上がって見ると十分印象的です。しかし、出土した遺物を一緒に見ると、さらに理解が深まり、神話の国出雲の代表になるだけのポテンシャルを持っていることが納得できるはずです。

尾道道路の完成に伴って広島方面から車で訪れる人も多くなりました。松江道路から見える奇妙な遺跡らしきもの、それを探して道に迷いながら見学に来る人も増えています。日本語のみならず外国語で書いた案内看板も必要です。

そして何より出土資料を示し、わかりやすい解説を施した展示場、しかも多言語対応のものが必須だと思います。展示場には出土した断片化した遺物だけでなく、復元模型をたくさん置いて、考古遺物を身近に感じてもらえる工夫も施します。英語版や中国語版の簡便なパンフレットも必要です。幸いに松江市には国際交流員がそろっており、協力してもらえるでしょう。私たちは市民の皆様のご理解を頂きながら、小さくても魅力的な展示施設の建設に邁進する所存です。

想像図
田和山遺跡の想像図